S55年12月31日 除夜祭
んー、はあ、ん、熱心な、えー、お百姓を、おー、なさる方、もうそれこそお百姓が好きでたまらんというような方を篤農と申します。いつもあそこの田んぼは草が生えておる、これは熱心な百姓だと。ね、生えたら取る、生えたら取る、というのが普通のお百姓さんだと。ね、もう、草も生える暇がないというほどしの、いうならもう田んぼに出ておることが有り難うして嬉しい。草が生える暇がない、生やす暇がない。それを篤農というと、いうことだそうです。
信心も、おー、篤信の人というのがございます。篤信の人とはどういう人のことを言うのであろうか。合楽にも段々そういう人達がでけておられます。それで、なら形の上において、どういうおかげを受けておるかというと、いわゆる合楽世界に住んでおる人達なんです。
一切の事柄、それを一切、御の字で受けておる人、心から受けておる人、ね、いうならば、ものでも、一切のものに御の字の付けられる人。そういう人を、私は合楽世界に住んでおる人だから、そういう人ならば、ね、自ずから生みなされてくるおかげ、人間のいわば幸せの条件が、もう様々な角度から観点から足ろうてくる。
ん、今朝から、んー、中村徹美先生がお礼に出て参りましてから、親先生、私は今年でこちらに修行に参りまして13年になります。そして今度、私どもが、ああ、結婚して入らせて頂いておる、ん、お部屋に、えー、軸が掛かっております。それは、いつも親先生の御理解を頂きます、ね、13年に一度なるという英彦山に、えー、密生するわけでもないでしょうけれども、英彦山にだけしかないという、赤い花の咲く茗荷、13年に一遍しか咲かないという、その絵が軸が掛かっております。親先生の賛が書いてある『討ち取るは難しされど妙賀かな』と、ね、妙賀とは喜びの妙である、その喜びの妙というのは、ね、あたくしは、一切のものと調和し、一切なものと拝み合えるとき、その拝み合える生活を妙賀の生活とこう。私の方の家紋が抱茗荷でございます、と中村先生が今朝からお届けいたしました。
あ、ね、抱茗荷である。しかも、おー、あたくしの部屋を頂きました部屋に、妙賀の軸が掛かっておる。しかも13年に一遍しか咲かんという珍しい花が描いてある。賛には、『討ち取るは難しされど妙賀かな』、ね、改まりに改まっていくだけ、自分の心が神様へ向こうていく。ね、改まっていけばいくほど、神様に近付いていくことができる。それは、改まることは、むつかしいのですけれども、そのむつかしいことよりも、ね、その改まらせて頂いた後の喜びが、もっと有り難いんだ、素晴らしいんだというわけであります、ね。
今日も、先ほど竹内先生が、えー、参りましてから、えー、私うっかりしてましたら、毎年調べるもんですから、明日お供えをさせて頂く御届帳。今年はあれだけの方達が御届帳に載ったわけです。どれだけですか全部で、(※47万3千名と答えている)あ、47万3千名というお届けが、数があっております。去年よりも、2万4千増えておるそうです。ね、いうならば、日勝り月勝り年勝り、とこれが代勝りというようなおかげを頂いていかなければならん。また、おかげの頂いていけれるのがお道の信心だと、ね。
そこでです、いうならば、『日参教聴心行家業の行』が、ね、みっちりでけていく。私は、信心はね、もう仕事が信心、信心が仕事、もう一体にならなければ駄目だと。忙しかったら信心がでけんといったような仕事じゃ駄目だと思うね。うん、もう一体になったもの、いわゆる、うー、信心即生活である、ね。そして、いうならば篤農じゃない、篤信のおかげを頂いて、そして、ね、ね、だから、自分が篤信と思うておっても、お金に難儀をしておったり、人間関係で困っておったり、いや、それはありましょうけれども、その難儀なら難儀に御の字が付けられておるかどうかと。ね、難儀を難儀と感じてない、神愛と感じておる。
今日あたくしはそのことを頂いて、お礼を申させて頂いとりましたら、このお広前をこう斜めに半分ぐらいな所にこれは、あの黒衣を着ておる先生方でもないですけども、黒衣を着た方達が、こう、半分ばっかり、こう隅の方へ一杯座っておるところを頂いた。はあ、この人達が合楽の篤信の方達だな、そして篤信としてのお徳を受けた、ああ、それこそ、人間の幸せの条件が足ろうていく、今、基礎を作っておる人達だな、というふうに思うた。黒衣という事は、今は修行中なんである。けれどもその修行そのものを、いよいよ神愛として受け、ね、えー、御の字を付けて頂いておる人達の姿であろう、この人達がほんとに、はあ、あちらは篤信だから、篤信だけのおかげを受けられる、なるほど、あれほど信心しなさったから、ああいうおかげも受けられるというような人達が、段々、ね、合楽はまだ年限が若いですから、できませんけれども、そういう人達が、やっぱり、んー、段々育っていっておるという事でございます。
皆さんの一人ひとりも自分の心に、自分の胸に手をおいてみて、自分もその中に加わっておるだろうかと思うてみなければいけません。せっかく信心させて頂くのであるから、それこそ篤信の一つ信心を頂いていったら( ? )。
今日も先ほど、ここで、ま、ここへ並んどるときに、どうもあたしはもう最近は、んー、お正月やら、盆やら、ね、大晦日やら全然区別がつかなくなってしまった。まあ、今日でも、部屋々の、おー、久富さん朝からみえておられましたから、軸が取り替えられた。または、あー、( ? )の上にはお正月におくようなものがこうやって置いてある。ははあ、正月だな、と。というだけで、なんかその気分作りに、まあいうまね、それこそ、正月の見るもの見せん富士の山というように、それこそまあ、目に付く所には縁起の良いものが置いてあって、いやそうせずにはおれないようなものがあったんですけれども、この頃はそこにあろうがなかろうが、そりゃ結局、いつもが元日の気持ちでおるからではなかろうか。日々を締めくくるときに大晦日の思いでお礼が申し上げれておるからではなかろうか。そこに、もう日々がほんとに元日ではなかろうか、盆と正月が一緒にきたといったような、おまかないを、いわば体の上にも大切にして頂いておるから、もう盆も正月も区別がないのではなかろうかというように思いました、ね。
これはまあ、いうならば、合楽世界に住む序の口の所でしょうけれども、ね、いうならば、『日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて』といったような信心は、一日がそれこそ、『朝のすがすがしさ、昼の忙しさ、夜の有り難さ』で締めくくっていく日々でなからなければならない。そして分かれば分かるほど、一切が神愛。ね、いわゆる、御事柄であり御物であり、お互い人間関係の中には、いつも抱茗荷であり、拝み合いのいうならば、生活というものが日々でけておる。そこには、盆もなければ正月もない、365日が元日であり大晦日であり、教祖が願われる理想の世界はそういう世界ではなかったろうか。
あたくしもそいういう世界を垣間見ておるような感じがするんです。ね、いよいよこの世界は限りがないのですから、ね、あたくしは、えー、除夜祭の内容というものは、ね、あの、( ? )の、に、そ、思いつきましたこと、書かせておりますけど、皆さんもお読み頂いておるだろうと思うけれども、『朝日を拝むものはあるけれども、夕日を、に、手を合わする人が少ない』。ね、お願いするときだけには、やあやあいうて、いうなら参ってもくるけれども、さあおかげを頂いたからというて、ついでにお礼に出て来るといったような、そしてまた次なにかお願いすることがなからなければお参りしないというような、ね、えー、ことではなくて、ね、一年間を振り返ってみて、まあ、皆さんの所の重大ニュースなら重大ニュースを拾い上げてみて、良いこともありましょう、悪いこともありましょうけれども、良し悪し一切が、ね、神愛の中に詰まれておった、あれもおかげであった、これもおかげであったと、はっきりお礼の言えれる事柄にしてしもうて、この除夜祭に臨まなければ、この除夜祭の値打ちがない。
ね、一年間を振り返ってみて、あれもおかげであった、これもおかげであったと、ね、お礼を申し上げさせて頂くお祭りである、で、それが賑々しゅう、賑やわしゅうなってくるときに、明日、元旦祭の前夜祭的な、モードすらが生まれてくるようなおかげを頂かなければならない、ね、どうでしょうか、一年間のこと振り返ってみて、もう親先生にご無理ばっかり申し上げました一年でした、そりゃ緩慢。けれども果たしてそれをおかげとして受け取れておるかどうか、それをほんとに有り難いと思うておるかどうか。
ね、もうそれこそ、ま、お詫びのし、いー、お祭りとか、お礼のお祭りとかと言われますけれども、まずここんところが根底としてね、一年間のあれもおかげであった、これもおかげであったと、そして来年こそは、ま、いうならばです、がんじんも、元日もなからなければ、もう、盆も正月もないような、忙しい時に使われる言葉ですけれども、ほどしの日々、欠ぐことのない、いうならば、あー、充実した、ま、日々、ね、充実した、有り難いという、日々を、ね、おかげを頂いて心にそれこそ生えようとする雑草は、もう生える前に摘み取らせて頂けるような、ね、いうなら、田んぼに草をもう生やさないというのが、篤農であるといわれるように、ね、篤農の所にはお野菜もよくできましょう、作物も他所並み以上の作物もできましょう、しかもその御用をさせて頂くことが楽しい、有り難い、もうお百姓てんなんてん、もう孫子の( ? )までさせるもんじゃなかばのというような気持ちじゃから、いつも草は生えどおし、ああまた草取らにゃならんといったような百姓ではそれは、もうそれこそ貧農ということになるでしょうね、貧しい百姓である。
例え金が物があっても心が貧しいのです。ね、例えば、んなら今、合楽の場合、篤農、篤信と言われるような人達が、今じっと、いうならば信心のいうなら妙賀に触れておる時である。それがまだ形に現わっていない、それこそ黒衣の姿ではあるけれども、ね、この人達が将来、合楽で篤信の方達であったと言われるような、ね、それこそ、盆のような正月のようなおまかないを受けられるようなおかげを、ね、いうならば、人からも神様からも大切に取り扱こうて頂けれるような信心を頂きたい。いうならば篤信と言われるような信心を頂きたい。
合楽ではそれがなされることために、ね、みやすう合楽理念を持って説き明かす。勉強である。ね、信心生活、一年間をいうならば、あー、一年間の信心生活を振り返ってみて、ね、あれもおかげであった、これもおかげであったというこ、ようなおかげを頂くことのためには、もちろん朝日も拝むでしょうけれども、夕日もまた、ね、有り難いとしみじみとお礼の言えれる。『朝の忙しさ、昼の忙しさ、夜の有り難さ』という一日を締めくくって、365日、それこそ大晦日に。
今日、昼、うー、いつも朝、あー、夫婦で参拝して参ります、田主丸のあの、石井信司郎さん達夫婦ですけども、もうほんとにあたくしどもが、こう結婚しましてから、一年一年おかげを頂いていっとりますが、も今まででは、今年が一番最高、もう昨日までで、いつお正月がきても良いというように、いうならば払うところは払う、集金するところは集金し、もうあれもかれもが片付いて、えー、心安らかなお礼参拝がでけたというて、今日はえー、昼から参ってきておりましたがね。
そういうおかげをお互い、いうなら段々もっともっと頂かせて頂いて、ね、そして、えー、信心させて頂く、いわゆる信心し、させて頂きなさるから違うということは、やはり、まあ、篤信の信心ということでなからなければ、人にも目立たない。あの人なんか信心のしよってけれども、というて悪口を言われておるような所から、ね、なるほど信心、やっぱ辛抱強うしよんなさったらおかげを頂きなさるばい、というようなね、おかげを頂いて大事にされて、まあとにかく一年間を締めくくったこの除夜祭には、あれもおかげであった、これもおかげであったと、もう内容がね、そこんところに心からのお礼を申し上げさせて頂いて、初めて本当のいうならば、あー、神様が願うておられるような元日を迎えることができるのじゃないだろうかと思います。
ね、今、合楽でいうならば、黒衣を付けておられると先生方というよりはありません。いうなら、様々な難儀も修行もまだ持っておられる方達、がです、内容にはです、ね、黒衣で身は包んでおるけれども、内容は有り難いである、一切のことに御の字を付けられておる、ね、いうならば、抱茗荷の姿であるというところを確かめて、ね、いよいよ日々を、ね、喜びの妙に浸らして頂いての生活、ね、ほんとに教祖様が仰る世界、それは、夜が、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら、元日と思うてというような金光大神理想の世界にいよいよ住みたいと思います。どうぞ。
さだみきこ